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第6話 妹の夫

Penulis: なつめ
last update Tanggal publikasi: 2026-07-27 05:33:01

 閉店を告げる音楽が止んでも、律の声だけが耳の奥に残っていた。

 また来る。

 紬は最後のレジを締め、売上票を所定の箱へ入れた。指先で紙を揃えるたび、手の甲の傷がひきつる。

「御厨さん、ぼうっとしないで」

 背後から奈津子に言われ、紬は肩を揺らした。

「申し訳ありません」

「床のモップがけ、まだ終わってないから。朝の不足の件でみんなに迷惑かけたんだし、それくらいやって帰って」

「はい」

 閉店後の店内は、昼間とは別の場所のように広かった。

 照明を半分落とした売場へ、冷蔵棚の機械音だけが低く響いている。紬は重いモップを両手で押し、レジ周辺に残った泥や食品の欠片を拭き取った。

 時計は退勤予定を三十分過ぎていた。

 昼食を取れなかった胃は、空腹を訴える力さえ失っている。腰を伸ばすと目の前へ黒い点が散り、レジ台へ手をつかなければ立っていられなかった。

 それでも、名前を呼ばれた瞬間だけが、妙に鮮明だった。

 中学生の頃と変わらない声だと律は言った。

 紬は誰にも見られないよう、唇を固く結んだ。

 思い返してはいけない。

 律は華怜の夫であり、自分は卓臣の妻だ。偶然顔を合わせ、客と店員として短い言葉を交わした。それだけのことだった。

 作業を終えて更衣室へ入る。

 制服の袖を脱ぐと、ハンカチの下で火傷の水疱が一つ破れていた。薄い液が皮膚を伝い、空気へ触れた途端、鋭く痛む。

 紬は備えつけの水道で傷を冷やし、使いかけの絆創膏を貼り直した。薬箱は事務所にある。借りれば理由を聞かれる。朝の過不足に加え、怪我で仕事へ支障を出したと責められるのが怖かった。

 私服へ着替え、長い髪を結び直す。

 名札を外すと、《御厨 紬》の二文字が掌へ収まった。

 律が見つめていた文字だった。

 紬は名札をロッカーの内側へ伏せ、扉を閉めた。

 従業員口を出ると、夜の冷気が火照った頬へ触れた。

 駐輪場は建物の裏手にある。古い蛍光灯が数本並んでいるものの、一番奥は光が届かず暗い。紬の自転車は、錆びた金網のそばへ停めてあった。

 鞄から鍵を取り出しながら歩き、途中で足を止める。

 街灯の下に、人が立っていた。

 濃紺のスーツ。黒い革の鞄。背の高い輪郭。

 律だった。

 店で買った袋はもう持っていない。両手をコートのポケットへ入れず、身体の横へ下ろしている。紬を待っていたことを隠す様子はなかった。

 胸の奥が大きく鳴った。

 同時に、繁政に背後から抱きつかれた時の感触が蘇る。

 紬は反射的に一歩下がった。

 右手で鞄の持ち手を握り、左腕を身体の前へ寄せる。

 律はその動きを見た。

 すぐに街灯の下から離れ、紬との間をさらに二歩分広げた。近づこうとしていた足を止め、両手を見える位置へ置く。

「ごめん」

 低い声が、冷えた駐輪場へ落ちた。

「驚かせるつもりはなかった」

 紬は返事ができなかった。

 律はそれ以上距離を詰めない。自転車へ向かう道を塞がないよう、身体を金網側へ寄せる。

「待ち伏せするつもりじゃなかった。どうしても、さっきのことが気になって」

「さっきのこと……ですか」

「火傷」

 律の視線が紬の左腕へ落ちる。

「あれは、どうした」

「鍋をひっくり返しただけです」

 考えるより先に、用意していた答えが口から出た。

「料理中に手を滑らせてしまって。大したことではありません」

「水疱ができてた」

「冷やす時間がなかったからです。帰ったら薬を塗ります」

 家に火傷の薬があったか、紬自身にも分からなかった。あったとしても、八重が使わせるとは限らない。

 律は黙っていた。

 責めるような沈黙ではない。

 紬の言葉を一つずつ確かめ、どこまで聞いてよいのかを測っているようだった。

「手の傷も、鍋で?」

「これは違います」

 紬は右手をコートの袖へ隠した。

「介護中の事故です。おじいさんが混乱してしまって、少し引っかかれただけで」

「毎日、介護をしてるのか」

「家にいる者がするのは当然ですから」

「家にいるって、紬は働いてるだろ」

 紬は顔を上げた。

 問い返す声に怒りはない。ただ、当たり前とされていることを初めて疑われたため、何と答えればよいのか分からなかった。

「仕事へ行く前と、帰ってからできます」

「ほかの家族は?」

「みんな忙しいんです」

「君よりも?」

 紬の呼吸が詰まった。

 君。

 その呼び方すら、家では一度も向けられない。

「私は慣れていますから」

 律の眉間へ浅い皺が寄った。

 納得していないことは分かったが、彼は嘘だと決めつけなかった。

「病院には行った?」

「行くほどではありません」

「火傷は、見た目より深いことがある」

「本当に大丈夫です」

 紬の声が少しだけ強くなる。

 律は口を閉じた。

「……分かった」

 引き下がる声には、信じた響きがなかった。

 それでも無理に袖を見ようとも、腕へ触れようともしない。

 冷たい風が二人の間を通った。

 金網の向こうで車が走り、濡れた路面をタイヤが擦る音がする。街灯へ小さな虫がぶつかり、白い光の中で何度も翅を震わせた。

 紬は律の左手に気づいた。

 薬指に、銀色の指輪がある。

 街灯の光を受け、細く冷たく光っていた。

 華怜と交わした結婚の証。

 律が左手を動かすたび、その輪だけが暗い夜の中で輪郭を失わない。紬は自分の薬指にも、家事で細かな傷のついた指輪があることを思い出した。

 分かっていたことなのに、目で確かめると胸の奥へ小さな痛みが走る。

 紬は視線を外した。

「華怜は元気?」

 問いかける声が、自分でも驚くほど静かだった。

 律の表情が止まる。

 ほんの一瞬だった。

 だが、すぐに答えなかったことを、紬は見逃さなかった。

 左手の指がわずかに曲がり、結婚指輪の縁を親指で押さえる。目が紬から逸れ、暗い駐輪場の奥へ向いた。

「……元気だよ」

 少し遅れて、律は微笑んだ。

 穏やかで、誰かを安心させるための笑顔だった。

 けれど目元の疲労は少しも薄れなかった。

 むしろ笑ったことで、頬のこわばりや、目の下の影がはっきり見えた。親指の付け根にある傷も、額の生え際に隠れた細い傷跡も、仕事だけでついたものなのか分からない。

「そう」

 紬はそれ以上聞けなかった。

 妹の暮らしを心配する姉として尋ねただけだ。そう自分へ言い聞かせる。

 律の結婚生活へ踏み込む権利はない。疲れて見える理由を知ろうとすることも、華怜との間に何があるのか想像することも、してはいけない。

 沈黙が落ちた。

 律は何度か口を開きかけた。

 やがて、鞄の持ち手を握り直す。

「あの時のこと、聞いてもいいか」

 紬の肩が強張った。

「中学の時、急に――」

「昔のことだから」

 紬は言葉を遮った。

 律の声が止まる。

「もう、十五年以上前のことです」

「俺には、理由が分からないままだ」

「分からなくても、困ることはなかったでしょう」

 思ったより冷たい言葉になった。

 律の目が痛みを含む。

 紬はすぐに後悔したが、謝ることもできなかった。ここで優しい言葉を選べば、閉じたはずのものが開いてしまう。

「華怜と結婚したんだから」

 最後の言葉は、風に紛れそうなほど小さかった。

 律の左手がわずかに動く。

 結婚指輪が、また街灯を反した。

「それと、紬があの時――」

 律が何かを言いかける。

 駐輪場の扉が開き、複数の靴音が聞こえた。

 紬は咄嗟に律から一歩離れた。

 出てきたのは奈津子だった。肩へ高価そうな鞄をかけ、スマートフォンを片手に持っている。

 二人を見つけると、その足がわざとらしく止まった。

「あら」

 視線が紬と律の間を往復する。

「御厨さん、まだ帰ってなかったの?」

「今、帰るところです」

「そう」

 奈津子は律の顔を確かめ、唇へ薄い笑いを浮かべた。

「さっきの、お客様よね」

「偶然、こちらにいらして――」

「別に説明しなくていいわよ」

 声には、説明などもう聞く気がないという愉しさが滲んでいた。

 奈津子はスマートフォンの画面を一度見てから、二人の横を通り過ぎる。

「お疲れさま。ごゆっくり」

 甘く伸ばした声を残し、駐車場へ歩いていった。

 紬の指先が冷たくなる。

「職場の人?」

「はい」

「誤解されたなら、俺から説明する」

「しないでください」

 紬はすぐに言った。

「でも」

「何か言えば、もっと悪くなります」

 律は遠ざかる奈津子の背中を見た。顎が強張ったが、紬の言葉を無視して追いかけることはしなかった。

「……分かった」

「もう帰ります」

 紬は自転車の鍵を外した。

 手が震え、鍵穴へうまく入らない。律が半歩動きかけ、紬の肩が揺れたのを見ると、すぐに止まった。

「気をつけて」

「失礼します」

 紬は頭を下げ、自転車を押して歩き始めた。

 振り返らなかった。

 翌朝、従業員用の廊下へ入った瞬間、会話が止まった。

 ロッカー前にいた二人が目を逸らし、片方が口元を隠して笑う。休憩室の扉を開けると、奈津子を囲んでいた従業員たちが一斉に散った。

「おはようございます」

 紬が挨拶しても、返事はまばらだった。

 制服へ着替えていると、薄い壁の向こうから声が聞こえる。

「昨日の人、常連客なんでしょ」

「わざわざ駐輪場へ呼び出したらしいよ」

「御厨さんって旦那さんいるよね?」

「子どもも五人でしょ。よくやるわ」

 笑い声が重なる。

 紬はボタンを留める手を止めた。

 呼び出していない。

 偶然待っていた律と、数分話しただけだった。身体へ触れてもいない。連絡先さえ知らない。

 更衣室を出ると、奈津子が廊下に立っていた。

「御厨さん、男性と会うのは自由だけど、職場を使わないでもらえる?」

「呼び出していません」

「でも、待ち合わせてたんでしょう」

「違います」

「必死に否定すると、余計に怪しいわよ」

 奈津子は周囲へ聞こえる声で笑った。

「お客様を個人的に誘うなんて、店長に知られたら困るんじゃない?」

 紬の喉が詰まる。

 否定すれば、言い訳だと言われる。黙れば認めたことにされる。

「申し訳ありません」

 結局、いつもの言葉しか出なかった。

「ほら。やっぱり何かあったんじゃない」

 小さな笑い声が、廊下のあちこちから返ってきた。

 その日の帰宅後、紬は台所で夕食の後片づけをしていた。

 卓臣はまだ出張から戻っていない。八重と繁政は居間でテレビを見ており、子どもたちは二階にいる。岩蔵の寝息を確かめ、ようやく流し台へ立ったところだった。

 ポケットの中で、古い携帯電話が震えた。

 着信画面に表示された名前を見た瞬間、背中が冷えた。

 《華怜》

 妹から電話がかかってくることは、ほとんどない。

 紬は濡れた手をエプロンで拭き、廊下へ出た。八重たちへ聞かれないよう、洗面所の扉を閉める。

「もしもし」

『姉ちゃん?』

 華怜の声は明るかった。

 昔から変わらない、甘く弾む声。

「どうしたの、こんな時間に」

『今日、律に会ったんだって?』

 紬の指が携帯電話を強く握った。

 会ったのは昨夜だと訂正しかけ、やめた。

 華怜が確かめたいのは日付ではない。姉と夫が同じ場所で顔を合わせ、言葉を交わしたという事実だけだった。

 律が話したのだ。

 再会したことを、妻である華怜へ隠さず伝えた。その事実に安堵するべきなのに、なぜか胸の奥が冷たく縮んだ。

「勤め先へ、お客様として来ただけよ」

『ふうん』

「本当に、それだけだから」

『何でそんな必死なの? 私、まだ何も聞いてないよ』

 くすくすと笑う声が耳元へ触れる。

 楽しげな響きの奥に、細く研がれた何かがあった。

 紬は返す言葉を探した。

 華怜はその沈黙さえ楽しむように、さらに明るい声で言った。

『運命の再会みたいで気持ち悪いね、姉ちゃん』

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