Masuk閉店を告げる音楽が止んでも、律の声だけが耳の奥に残っていた。
また来る。
紬は最後のレジを締め、売上票を所定の箱へ入れた。指先で紙を揃えるたび、手の甲の傷がひきつる。
「御厨さん、ぼうっとしないで」
背後から奈津子に言われ、紬は肩を揺らした。
「申し訳ありません」
「床のモップがけ、まだ終わってないから。朝の不足の件でみんなに迷惑かけたんだし、それくらいやって帰って」
「はい」
閉店後の店内は、昼間とは別の場所のように広かった。
照明を半分落とした売場へ、冷蔵棚の機械音だけが低く響いている。紬は重いモップを両手で押し、レジ周辺に残った泥や食品の欠片を拭き取った。
時計は退勤予定を三十分過ぎていた。
昼食を取れなかった胃は、空腹を訴える力さえ失っている。腰を伸ばすと目の前へ黒い点が散り、レジ台へ手をつかなければ立っていられなかった。
それでも、名前を呼ばれた瞬間だけが、妙に鮮明だった。
中学生の頃と変わらない声だと律は言った。
紬は誰にも見られないよう、唇を固く結んだ。
思い返してはいけない。
律は華怜の夫であり、自分は卓臣の妻だ。偶然顔を合わせ、客と店員として短い言葉を交わした。それだけのことだった。
作業を終えて更衣室へ入る。
制服の袖を脱ぐと、ハンカチの下で火傷の水疱が一つ破れていた。薄い液が皮膚を伝い、空気へ触れた途端、鋭く痛む。
紬は備えつけの水道で傷を冷やし、使いかけの絆創膏を貼り直した。薬箱は事務所にある。借りれば理由を聞かれる。朝の過不足に加え、怪我で仕事へ支障を出したと責められるのが怖かった。
私服へ着替え、長い髪を結び直す。
名札を外すと、《御厨 紬》の二文字が掌へ収まった。
律が見つめていた文字だった。
紬は名札をロッカーの内側へ伏せ、扉を閉めた。
従業員口を出ると、夜の冷気が火照った頬へ触れた。
駐輪場は建物の裏手にある。古い蛍光灯が数本並んでいるものの、一番奥は光が届かず暗い。紬の自転車は、錆びた金網のそばへ停めてあった。
鞄から鍵を取り出しながら歩き、途中で足を止める。
街灯の下に、人が立っていた。
濃紺のスーツ。黒い革の鞄。背の高い輪郭。
律だった。
店で買った袋はもう持っていない。両手をコートのポケットへ入れず、身体の横へ下ろしている。紬を待っていたことを隠す様子はなかった。
胸の奥が大きく鳴った。
同時に、繁政に背後から抱きつかれた時の感触が蘇る。
紬は反射的に一歩下がった。
右手で鞄の持ち手を握り、左腕を身体の前へ寄せる。
律はその動きを見た。
すぐに街灯の下から離れ、紬との間をさらに二歩分広げた。近づこうとしていた足を止め、両手を見える位置へ置く。
「ごめん」
低い声が、冷えた駐輪場へ落ちた。
「驚かせるつもりはなかった」
紬は返事ができなかった。
律はそれ以上距離を詰めない。自転車へ向かう道を塞がないよう、身体を金網側へ寄せる。
「待ち伏せするつもりじゃなかった。どうしても、さっきのことが気になって」
「さっきのこと……ですか」
「火傷」
律の視線が紬の左腕へ落ちる。
「あれは、どうした」
「鍋をひっくり返しただけです」
考えるより先に、用意していた答えが口から出た。
「料理中に手を滑らせてしまって。大したことではありません」
「水疱ができてた」
「冷やす時間がなかったからです。帰ったら薬を塗ります」
家に火傷の薬があったか、紬自身にも分からなかった。あったとしても、八重が使わせるとは限らない。
律は黙っていた。
責めるような沈黙ではない。
紬の言葉を一つずつ確かめ、どこまで聞いてよいのかを測っているようだった。
「手の傷も、鍋で?」
「これは違います」
紬は右手をコートの袖へ隠した。
「介護中の事故です。おじいさんが混乱してしまって、少し引っかかれただけで」
「毎日、介護をしてるのか」
「家にいる者がするのは当然ですから」
「家にいるって、紬は働いてるだろ」
紬は顔を上げた。
問い返す声に怒りはない。ただ、当たり前とされていることを初めて疑われたため、何と答えればよいのか分からなかった。
「仕事へ行く前と、帰ってからできます」
「ほかの家族は?」
「みんな忙しいんです」
「君よりも?」
紬の呼吸が詰まった。
君。
その呼び方すら、家では一度も向けられない。
「私は慣れていますから」
律の眉間へ浅い皺が寄った。
納得していないことは分かったが、彼は嘘だと決めつけなかった。
「病院には行った?」
「行くほどではありません」
「火傷は、見た目より深いことがある」
「本当に大丈夫です」
紬の声が少しだけ強くなる。
律は口を閉じた。
「……分かった」
引き下がる声には、信じた響きがなかった。
それでも無理に袖を見ようとも、腕へ触れようともしない。
冷たい風が二人の間を通った。
金網の向こうで車が走り、濡れた路面をタイヤが擦る音がする。街灯へ小さな虫がぶつかり、白い光の中で何度も翅を震わせた。
紬は律の左手に気づいた。
薬指に、銀色の指輪がある。
街灯の光を受け、細く冷たく光っていた。
華怜と交わした結婚の証。
律が左手を動かすたび、その輪だけが暗い夜の中で輪郭を失わない。紬は自分の薬指にも、家事で細かな傷のついた指輪があることを思い出した。
分かっていたことなのに、目で確かめると胸の奥へ小さな痛みが走る。
紬は視線を外した。
「華怜は元気?」
問いかける声が、自分でも驚くほど静かだった。
律の表情が止まる。
ほんの一瞬だった。
だが、すぐに答えなかったことを、紬は見逃さなかった。
左手の指がわずかに曲がり、結婚指輪の縁を親指で押さえる。目が紬から逸れ、暗い駐輪場の奥へ向いた。
「……元気だよ」
少し遅れて、律は微笑んだ。
穏やかで、誰かを安心させるための笑顔だった。
けれど目元の疲労は少しも薄れなかった。
むしろ笑ったことで、頬のこわばりや、目の下の影がはっきり見えた。親指の付け根にある傷も、額の生え際に隠れた細い傷跡も、仕事だけでついたものなのか分からない。
「そう」
紬はそれ以上聞けなかった。
妹の暮らしを心配する姉として尋ねただけだ。そう自分へ言い聞かせる。
律の結婚生活へ踏み込む権利はない。疲れて見える理由を知ろうとすることも、華怜との間に何があるのか想像することも、してはいけない。
沈黙が落ちた。
律は何度か口を開きかけた。
やがて、鞄の持ち手を握り直す。
「あの時のこと、聞いてもいいか」
紬の肩が強張った。
「中学の時、急に――」
「昔のことだから」
紬は言葉を遮った。
律の声が止まる。
「もう、十五年以上前のことです」
「俺には、理由が分からないままだ」
「分からなくても、困ることはなかったでしょう」
思ったより冷たい言葉になった。
律の目が痛みを含む。
紬はすぐに後悔したが、謝ることもできなかった。ここで優しい言葉を選べば、閉じたはずのものが開いてしまう。
「華怜と結婚したんだから」
最後の言葉は、風に紛れそうなほど小さかった。
律の左手がわずかに動く。
結婚指輪が、また街灯を反した。
「それと、紬があの時――」
律が何かを言いかける。
駐輪場の扉が開き、複数の靴音が聞こえた。
紬は咄嗟に律から一歩離れた。
出てきたのは奈津子だった。肩へ高価そうな鞄をかけ、スマートフォンを片手に持っている。
二人を見つけると、その足がわざとらしく止まった。
「あら」
視線が紬と律の間を往復する。
「御厨さん、まだ帰ってなかったの?」
「今、帰るところです」
「そう」
奈津子は律の顔を確かめ、唇へ薄い笑いを浮かべた。
「さっきの、お客様よね」
「偶然、こちらにいらして――」
「別に説明しなくていいわよ」
声には、説明などもう聞く気がないという愉しさが滲んでいた。
奈津子はスマートフォンの画面を一度見てから、二人の横を通り過ぎる。
「お疲れさま。ごゆっくり」
甘く伸ばした声を残し、駐車場へ歩いていった。
紬の指先が冷たくなる。
「職場の人?」
「はい」
「誤解されたなら、俺から説明する」
「しないでください」
紬はすぐに言った。
「でも」
「何か言えば、もっと悪くなります」
律は遠ざかる奈津子の背中を見た。顎が強張ったが、紬の言葉を無視して追いかけることはしなかった。
「……分かった」
「もう帰ります」
紬は自転車の鍵を外した。
手が震え、鍵穴へうまく入らない。律が半歩動きかけ、紬の肩が揺れたのを見ると、すぐに止まった。
「気をつけて」
「失礼します」
紬は頭を下げ、自転車を押して歩き始めた。
振り返らなかった。
翌朝、従業員用の廊下へ入った瞬間、会話が止まった。
ロッカー前にいた二人が目を逸らし、片方が口元を隠して笑う。休憩室の扉を開けると、奈津子を囲んでいた従業員たちが一斉に散った。
「おはようございます」
紬が挨拶しても、返事はまばらだった。
制服へ着替えていると、薄い壁の向こうから声が聞こえる。
「昨日の人、常連客なんでしょ」
「わざわざ駐輪場へ呼び出したらしいよ」
「御厨さんって旦那さんいるよね?」
「子どもも五人でしょ。よくやるわ」
笑い声が重なる。
紬はボタンを留める手を止めた。
呼び出していない。
偶然待っていた律と、数分話しただけだった。身体へ触れてもいない。連絡先さえ知らない。
更衣室を出ると、奈津子が廊下に立っていた。
「御厨さん、男性と会うのは自由だけど、職場を使わないでもらえる?」
「呼び出していません」
「でも、待ち合わせてたんでしょう」
「違います」
「必死に否定すると、余計に怪しいわよ」
奈津子は周囲へ聞こえる声で笑った。
「お客様を個人的に誘うなんて、店長に知られたら困るんじゃない?」
紬の喉が詰まる。
否定すれば、言い訳だと言われる。黙れば認めたことにされる。
「申し訳ありません」
結局、いつもの言葉しか出なかった。
「ほら。やっぱり何かあったんじゃない」
小さな笑い声が、廊下のあちこちから返ってきた。
その日の帰宅後、紬は台所で夕食の後片づけをしていた。
卓臣はまだ出張から戻っていない。八重と繁政は居間でテレビを見ており、子どもたちは二階にいる。岩蔵の寝息を確かめ、ようやく流し台へ立ったところだった。
ポケットの中で、古い携帯電話が震えた。
着信画面に表示された名前を見た瞬間、背中が冷えた。
《華怜》
妹から電話がかかってくることは、ほとんどない。
紬は濡れた手をエプロンで拭き、廊下へ出た。八重たちへ聞かれないよう、洗面所の扉を閉める。
「もしもし」
『姉ちゃん?』
華怜の声は明るかった。
昔から変わらない、甘く弾む声。
「どうしたの、こんな時間に」
『今日、律に会ったんだって?』
紬の指が携帯電話を強く握った。
会ったのは昨夜だと訂正しかけ、やめた。
華怜が確かめたいのは日付ではない。姉と夫が同じ場所で顔を合わせ、言葉を交わしたという事実だけだった。
律が話したのだ。
再会したことを、妻である華怜へ隠さず伝えた。その事実に安堵するべきなのに、なぜか胸の奥が冷たく縮んだ。
「勤め先へ、お客様として来ただけよ」
『ふうん』
「本当に、それだけだから」
『何でそんな必死なの? 私、まだ何も聞いてないよ』
くすくすと笑う声が耳元へ触れる。
楽しげな響きの奥に、細く研がれた何かがあった。
紬は返す言葉を探した。
華怜はその沈黙さえ楽しむように、さらに明るい声で言った。
『運命の再会みたいで気持ち悪いね、姉ちゃん』
その日、紬がレンタルルームへ持ってきた鞄は、いつもより少しだけ重かった。中に入っているのは着替えでも食事でもなく、薄い大学ノートが三冊と、透明なファイルへ挟んだ銀行明細やレシートの写しだった。長年使い続けてきた家計簿の一部で、表紙の角は擦れ、何度も開閉したページの端には油や水の薄い染みが残っている。子どもが幼かった頃に書いた鉛筆の数字と、最近の細いボールペンの文字が同じ一冊の中に並び、紬が何年も同じ台所で金額を削り続けてきた時間そのもののように見えた。 律は机の向こうへ座り、紬が一冊目を開くまで何も尋ねなかった。今日はスープも菓子もなく、二人分のペットボトルの茶だけが机の端に置かれている。紬は最初のページをめくり、五万円と大きく書かれた月で指を止めた。「これ、まだ生活費が五万円だった時」「十人で?」「うん」「食費だけ?」「食費と日用品と、学校で急に必要になったもの。病院代は卓臣が出すって言ってたけど、細かい診療代は結局ここから払うことも多かった」 律は眉を寄せたが、何も言わずページへ目を落とした。米、肉、魚、牛乳、洗剤、トイレットペーパー、学校用品。数字は一円単位で細かく並んでいる。月末へ近づくにつれて、肉の回数が減り、豆腐ともやしが増え、紬自身の昼食欄だけが空白になる日が多くなっていた。「この頃から、自分の分減らしてた?」「減らすっていうより、残ったものを食べてた」「残らなかったら?」「食べない」 答えてから、紬は自分でも平然と言いすぎたと思った。律の表情が少し曇る。それでも彼は「何でそんなことを」と責めるようには言わず、次のページへ目を移した。「これが三万円になった月」 紬は別のノートを開く。赤いペンで〈三〇、〇〇〇円〉と書かれ、その下へ日付ごとの支出が並んでいる。月の半ばを過ぎたところから、買い物の内容が明らかに変わっていた。豚肉の代わりに鶏むね肉、刺身の代わりに豆腐、果物は安いバナナだけ。八重が要求する八品を維持するため、同じ材料を切り方と味付けで別料理に見せている日もある。「ここ、何で一日食費四百円台なんだ」「前の日の残りと、冷凍してあったもの使ったから」「十人分?」「うん」「無理だろ」「だから、私の分を数えなかった」 律は何か言いかけてやめた。紬はその沈黙の意味が分かった。以前なら、自分でも「でも仕方なかった
卓臣の会社から家族同伴の食事会があると聞かされた時、紬が最初に考えたのは、誰が岩蔵を見るのかということだった。八重は「たまには嫁らしく夫の顔を立ててきな」と言い、自分が数時間くらい父親のそばにいるから問題ないと答えたが、その口ぶりだけで、帰宅後に何を言われるかは想像できた。子どもたちは同行せず、夫婦だけで出席するらしい。卓臣は紬へ予定を相談するのではなく、三日前になって日時と場所を告げ、当日は仕事を早退するよう命じた。「会社には自分で話します」「休めばいいだろ」「早退できるか確認します」「俺の会社の付き合いなんだから、それくらい合わせろよ」 以前なら、その場で謝って店長へ無理を言ったかもしれない。今の紬は勤務表を確認し、交代可能な従業員がいることを確かめた上で、一時間だけ早く上がれないか申し出た。理由も「家族行事」とだけ伝えた。鴨志田は以前のように夫から何か連絡があったのかとは聞かず、「分かりました」と勤務変更を記録に残した。 当日の夕方、紬が帰宅すると、卓臣はすでに支度を終えていた。紺色のスーツに新しいネクタイを締め、鏡の前で髪を整えている。ベッドの上には、紬が数年前に親族の結婚式用として買った濃紺のワンピースが置かれていた。「それ着ろ」「これ?」「スーパーの制服みたいな格好で来られたら困るからな」 紬は黙って着替えた。ワンピースは以前より少し緩くなっている。体重が落ちたせいで、腰のあたりに余分な布ができていた。化粧も最低限だけ整え、髪を一つにまとめる。卓臣は玄関へ出る前に紬を頭から足まで確認し、口紅が薄いと言って自分の指で紬の口元へ触れようとした。「自分で直します」 紬が顔を引くと、卓臣の眉が動いた。「今日くらい普通にしろよ」「何が普通なの」「夫婦としてだよ」 その言葉を聞きながら、紬は口紅を塗り直した。 会場は都心のホテルにあるレストランだった。卓臣の会社の取引先や同僚、管理職とその家族が集まり、円卓ごとに名前が決められている。受付へ着いた瞬間から、卓臣の表情は家にいる時とは別人のように柔らかくなった。「妻の紬です」 名前を呼ばれた。 家では滅多に呼ばない名前を、卓臣は他人の前ではためらいなく使う。「五人もお子さんがいるんですよね」 同僚の妻らしい女性が驚いたように言う。「そうなんです。全部妻が頑張ってくれてい
誕生日会から二日後、紬はレンタルルームの扉を開けた瞬間、まず律の顔を見た。頬にも手にも新しい傷はなく、それだけで胸の奥が少し緩む。けれど安堵のすぐ後に、華怜の家で何があったのかという不安が戻ってきた。あの夜、律は皆の前で紬へケーキを渡し、椅子まで運んだ。華怜も卓臣も、二人の関係を疑っている。今ここで会うこと自体、本来なら避けた方が安全なのだと、紬にも分かっていた。 部屋には、いつもの二脚の椅子と小さな机、壁際の古いソファがある。今日は食事を用意していなかった。律は先に着いていたが、紬が入ってもすぐには近づかず、机の向こうで立ったまま待っている。紬が椅子へ座るのを見てから、ようやく自分も向かいへ腰を下ろした。「この前は、ごめん」 律が先に言った。「何が?」「誕生日会。俺が余計なことした」 言い訳を探すような声ではなかった。紬は鞄を膝へ置き、その留め具へ指をかけたまま律を見る。「困らせたと思う」「……うん」 紬は否定しなかった。「怖かった。華怜も見てたし、卓臣も怒ってた。あの場で律が私にケーキ渡したら、また何か疑われるって分かった」「ああ」「椅子まで持ってきたでしょう」「それも悪かった」 律は短く答えた。「前に久世家でもやったから、同じことをすればいいと思った。でも今は状況が違う。紬が自分で距離を決めようとしてるのに、俺が先に動いた」 その言葉に、紬は少しだけ目を伏せた。怒っているわけではない。むしろ、あの日渡されたケーキをまだ覚えている。自分の名前が書かれていない大きなケーキの端を、小皿へ載せて差し出された時、家族全員の前で手が震えた。それでも皿を床へ置かず、一口だけ食べた。「うれしくもあった」 律の目が上がる。「怖かったけど、うれしかった」「どっちなんだ」「両方」 紬は自分でも少し笑った。「私、あの時、本当に食べちゃいけないと思ってたんだよ。華怜のためのケーキだから。私の名前は書いてないし、お義母さんもお母さんも、私は祝われる側じゃないって言ってたから」「それは違うと思った」「うん。それを、律が皿ごと渡してくれたでしょう」 紬はそこで一度言葉を止めた。「だから、自分にも食べる権利があるんだって分かった」 律は何も言わずに聞いている。「でも、今度からは私に選ばせて」 紬ははっきり言った。「食べるかどうか
午後六時を回るころには、御厨家の食卓だけでは皿が収まらなくなっていた。紬が早朝から仕込んだ料理は十二品あり、鯛の塩焼き、筑前煮、茶碗蒸し、甘い出汁巻き卵、華怜が好きな海老の含め煮まで、大皿と小鉢が居間の座卓にも並べられている。仕事から戻って休む間もなく仕上げた料理だったが、八重は数を確かめるより先に鍋の中を覗き、「これ、十人分くらいしかないじゃないか」と眉を吊り上げた。今日は静江と隆、華怜と律まで来るため、普段の食卓より人数が多いことなど、紬にも分かっていた。それでも材料費を増やす金は渡されておらず、三万円に減らされた生活費の残りと自分の財布から出さずに済む範囲で、豆腐や根菜を使って量を増やしていた。「足りなかったらどうするんだい。華怜ちゃんの誕生日なんだよ」「十二品あります。ご飯も多めに炊いてあります」「品数の話じゃないよ。客に遠慮させるようじゃ嫁の恥だって言ってるんだ」 八重はそう言いながら、海老の大皿から一番形の良いものを華怜の席になる皿へ先に取り分けた。紬は言い返さず、鍋の底に残った筑前煮を別の鉢へ移し、見た目だけでも量があるよう整えた。今日は自分も誕生日だと昼までは意識していたはずなのに、家へ帰って台所へ立ってからは、またいつものように「何人分足りるか」「誰が何を嫌うか」ばかりを考えている。昼休みに食べた小さなプリンと、律が言った「誕生日おめでとう、紬」という声だけが、朝から続いている一日の中で別の場所に置かれた記憶のようだった。 六時半を過ぎたころ、静江と隆が到着し、その十分後に華怜と律が来た。華怜は淡い生成り色のワンピースに金木犀の香水をまとい、誕生日の主役らしく髪まで丁寧に巻いている。静江は玄関で娘を抱きしめ、「今年も元気にこの日を迎えられてよかった」と目を潤ませた。そのすぐ横で靴を揃えていた紬には、誕生日について何の言葉もなかった。隆は紬と一瞬目を合わせたが、「料理、大変だったな」とだけ言い、そのまま居間へ入った。「姉ちゃん、これ全部作ったの?」「うん」「すごい。でも、この卵焼きちょっと色違うね。昔はもっと黄色かった気がする」 華怜が笑いながら出汁巻き卵を見た直後、静江が一切れ口へ運んだ。咀嚼してから首を傾げ、「華怜が好きだった味と違うわね。昔はもっと甘かったでしょう」と言う。紬は砂糖を増やして作ったことを伝えたが、静江は「病
八月の終わりが近づくと、御厨家の食卓に華怜の名前が増え始めた。最初に言い出したのは八重で、夕食後の茶を飲みながら、今年はちゃんとした食事会にしようと卓臣へ話していた。華怜は身体が弱かったのに、今年も無事に誕生日を迎えられるのだから祝わなければならないという。紬は流し台で十人分の皿を洗いながら、その会話を背中で聞いていた。「鯛は尾頭つきがいいね。華怜ちゃん、昔から見栄えのいいものが好きだから」「ケーキは俺が頼むよ」「去年みたいな小さいのじゃ駄目だよ。せっかくの誕生日なんだから」 卓臣と八重の声が続く。結莉はどんなケーキなのかと尋ね、茉白は華怜の好きな店なら駅前の洋菓子店だと口を挟んだ。凌雅と颯真も、どうせなら自分たちも食べられる大きいものにしてほしいと笑っている。その場にいる誰も、華怜と同じ日に生まれた人間が流しの前に立っていることへ触れなかった。 紬は洗剤の泡を流しながら、自分でも驚くほど静かな気持ちでその事実を受け止めていた。三十八回近く繰り返してきたことだった。双子なのだから誕生日は同じはずなのに、久世家ではいつも華怜の体調が中心になり、結婚してからは御厨家までそれを当然のように引き継いだ。悲しくないわけではない。ただ、悲しいと感じる前に「仕方がない」と自分へ言い聞かせる癖の方が、長い年月をかけて先に動くようになっていた。 翌日、静江から電話が来た。紬が休憩に入った直後で、画面に母の名前が出た瞬間に胃の奥が重くなる。それでも出なければ何度も着信が続くことを知っているため、人気のない従業員通路の端で応答した。『華怜の誕生日プレゼント、今年はこの化粧品にするから』「何の話?」『限定のセット。八万くらいするけど、華怜が前から欲しがってたの。あんたも半分出して』 紬は壁に背を預けた。生活費は三万円のままで、新しい口座に一万円だけ残せるようになったばかりだ。その一万円は、自分がようやく自分の名前で守れた金だった。「払えないよ」『また?』「またじゃなくて、払えない」『あんた、姉でしょう。誕生日くらい妹を祝ってあげようと思わないの?』「私も同じ誕生日だよ」 電話の向こうが一瞬静かになった。静江はその事実を知らなかったわけではない。ただ、忘れていたことを指摘された人のように、少し間を置いてから不機嫌そうな声を出した。『だから何なの。華怜は病
午前六時四十二分、紬は駅前の雑居ビルの階段を上がった。外はもう明るくなっていたが、朝の空気には夜の名残があり、日中ほどの暑さはない。それでも、家から駅まで自転車を走らせ、そのまま早足でここまで来たせいで、制服の下の背中には薄く汗がにじんでいた。スーパーの始業は午前八時。借りた部屋を出て電車へ乗り、従業員入口からロッカーへ向かう時間まで考えれば、二人に許されているのは四十五分しかなかった。 今朝も午前四時二十分に起きた。五人分の弁当へ米を詰め、鮭を焼き、卵を巻き、十人分の味噌汁を用意した。岩蔵には別に柔らかく煮た野菜を用意し、薬を飲ませ、夜中に汚れたタオルも洗濯機へ入れた。八重からは味噌汁の具が少ないと言われ、凌雅には弁当の肉を増やせと言われたが、六時十一分には家を出られた。自分の朝食だけは、台所へ置いたままの茶碗にさえ用意していなかった。 部屋の扉を開けると、律はすでに来ていた。濃紺のスーツに白いシャツ、ネクタイまで締めており、そのまま取引先へ向かっても不自然ではない姿だった。いつもの二脚の椅子と古いソファがあるだけの部屋で、仕事前の男が鞄を足元へ置いている光景は、どこか会議の待ち時間にも見える。「おはよう」「おはよう。早かった?」「十分くらい」「ごめん」「謝るところじゃない」 律はそう答え、机の上を示した。紙の容器へ入った味噌汁が二つ、包装された鮭のおにぎりが二つずつ置かれ、紙ナプキンと割り箸まで並んでいる。コンビニの袋から出しただけの朝食なのに、自分の前にも一人分があることを見た瞬間、紬は鞄を下ろす手を止めた。「食べてきたって言ったら?」「多分、嘘だと思う」「何で」「朝から十人分作った日は、紬は自分の分を後回しにするから」 言い返せなかった。律に生活の癖を知られていることが少し恥ずかしく、同時に、責めるためではなく食事を用意するために覚えられていたことがくすぐったい。紬は向かいの椅子を引き、もう「座っていい?」とは聞かずに腰を下ろした。「今日は鮭なんだ」「嫌だった?」「家でも鮭焼いてきた」「じゃあ別のにすればよかったな」「ううん。自分で焼いたのに、自分では食べてないから」 紬は包装を開いた。まだほんのり温かく、海苔の匂いがする。家で焼いた鮭は凌雅の弁当へ大きい部分を入れ、残りを五つへ分けたため、味見すらしていなかった。目